2005年05月21日

[底]言葉という枷

 日記というのは、その日に起こったこと、例えばいつもより1時間ほど早く目が覚めてしまったとか、黒猫が目の前を横切ったとか、お昼にコンビニに行ったらお気に入りのプリンが安くなっていたとか、そういったことを記す文章だ。あるいは、友人が浮気している話を聞いて気分が悪いとか、インク壺の口はもっと大きくすべきだとか、男の履くショートパンツは犯罪だとか、そういった思いを記すこともある。
 つまりは、どれも実際に起こったこと、既知の事項を記すわけだ。わかっているから、書ける。見たから、聞いたから書ける。
 だから、例えば今日僕が、鏡の両側にいるような殺人鬼と傍観者の会話を横で聞いていた、とか椅子に首無し死体を座らせ、それを踏み台にして3メートルくらい上の窓めがけて跳んでいる女性を見たとか、そういうことを書くことは、あまりない。それらは、他人からは嘘や妄想として捉えられる。

 これを読んでいる方は、天才に会ったことはあるだろうか。例えば、絵描きでも音楽家でもいい。科学者でもOLでもいい。一般に天才、と呼ばれる人たちだ。
 僕はまだない。天才の卵になら会っているかもしれないが、生憎、卵というものは割れてからでないと卵だとわからないものだ。そしてまた自分も天才ではない。
 では、僕は天才のことを書くことができるだろうか。あるいは描くことが。

 できる、ともできない、とも言える。
 僕は自分の書いた事実ではない文章を「物語」と名付けて人目に晒している。それは間違いなく僕がキーボードを叩いたから実体化したものだし、誰かの文を書き写したわけではない。
 ただし、僕の部屋に青い猫が突然現れたことはないし、戦闘機を駆ったこともない。ついでにいうとギターはさっぱりだ。何しろF-G7-Cがスムーズに弾けないのだから。それでも、僕の頭の中では沙樹嬢に毎朝和食を食わせてもらえる学生君がいるわけだし、ネットの世界に自分と同期を取っている他人がいる兵士がいるわけだ。だから、僕は天才を書くこともできるだろう。
 ただし、頭の中で思い描いた天才の行動が、どれほどリアルかというと、それは書いてみないとわからない。人によっては写真を貼った立て看板よりもリアリティを感じない、と思うかもしれない。ひょっとしたら明日あたり隣に引っ越してきそうだと思うかもしれないが、まぁその可能性は今のところ高くないだろう。

 人は自分が感じてもいない喜びを描くこともできれば、自分が持っていない感覚を描くこともできる。知っているから描けるのではなく、知らなくても描けるのだ。
 ただし、知っているから描けるのではなく、知っていても描けないものはたくさんある。毎日口にくわえるスプーンの質感や、シャワーのお湯の温度がなかなか適温にならないもどかしさ、メモリーカードをPS Oneに突っ込んだ時の感触や、ポケットで震えた携帯を取ってみたら非通知と表示されているときのちょっとした不安や疑問。今読んで鼻で笑った人は、試してみよう。全部書けたなら、貴方は僕よりいい言葉と感覚を持っている。
 つまりは、未知・既知と表現の可不可とは無関係なのだ。知らないことは書けない、というのなら、世の推理小説の大半は存在を失うことになるだろう。殺される瞬間の恐怖を実体験した人があんなに生きているとは、さすがに信じがたい。

 既知であるから書けるわけではない。ただし、既知のものを組み合わせて頭の中で再生することで、既知のものでも未知のものでも書ける。だから表現に既知のものは重要な位置を占めているというのは間違いない。ヒンシツという意味でもそうだ。親を失った人の気持ちは、実際に親を失ってみると、きっと失う前よりよくわかる。
 でも、未知であるから書けないことはない。日記でも、物語でもそうだ。今日ずぶ濡れの女の子に声をかけたのは事実ではないが、それを今日の昼に東急ハンズで棚を買ったのと同じぐらいリアルに書くことは、それほど難しくない。

 言語は不自由だ。たとえば日本語と英語とタイ語をごっちゃにして書くと、少し表現はしやすくなるが、やっぱり不便であることには変わりない。現象をそのまま再現するわけではないからだ。言語というフィルターを通して情報を圧縮すると、幾ら効率のいい圧縮方法を使ったとしても情報の質は劣化する。受け手は、圧縮されて言葉として受け取った情報を、自分で解凍して認識する。でも言語化は不可逆圧縮だ。圧縮率がどれぐらいであろうと、100%の形に復元することはできない。
 言語は不自由だから、自由になれる。情報を圧縮しなければならないから、同じ情報量の2つの言葉を比べた時に、元の情報量の差は受け手からは認識できない。圧縮率は知りようがないから、元が100iだろうが50iだろうが、受け手は手元の10iの情報量から元の100iないし50iの情報量を復元することはできない。だから、50iの情報の圧縮前の情報量を100iとでも200iとでも偽ることができる。所詮受け手は10iしか受け取れないのだから検証は不可能だ。そして、受け手にとっては元の情報がいくらであろうと、手元の10iで満足できる。

 全ての事象を表現できる人工言語を扱う人々の話を聞いたことがある。実際のところ、それは「言語」と呼べるかどうかも怪しい。その言語を扱うことで、自分の目で見たものを、相手の目の前にそのまま復元し展開することができる。自分の友人がどんな顔をしていてどんな声なのか、表現の上手い下手を考えなければ100%相手に伝えることできる。そういう言語だ。
 もしそんな言語を使えたら、きっと人は無口になるだろう。あるいは情報の選別が飛び抜けて上手くなるに違いない。自分の言いたいことをクローズアップして相手にダイレクトに伝える。それは相手の認識に割り込むようなものだ。あるいは、自分の感覚器を相手に繋ぐようなもの、と言ってもいい。お互いに情報でレイプし合うような事態を解決するために、情報の伝達回数を抑えるか、情報の量を意図的に減らすか、どちらかの手段を取るしかなくなる。人間というのは、心が狭くて自分勝手なのだ。

 ソースの情報量がそのまま伝達可能情報量になる、そんな人工言語は僕は欲しくない。僕のような人の言葉に流されやすい人間は、10i程度の情報でころっとだまされてしまう。それが同じ状況下で100iの情報を一気に流されたとしたら、本当か嘘かなど考えようともしないだろう。ただ圧倒されて、言うがままになるだけだ。情報を圧縮しなければ伝えられないという人間の制約は、偶然にも人間の情報処理能力の平均値に沿った、ありがたい鎖だ。僕らを縛りつけ、同時に守ってくれる鎧なのだ。
posted by alohz at 15:33| バンコク ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | thinking | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。